愛とはなんでしょうか?
愛はコミュニケーションの土台でもありますし、地域社会の潤滑油でもあります。
そして、愛こそ人間のいきがいであり。命の原型とその大元です。
愛は、我々に内なるつながりをもたらせ・・生きがいを生み出すものです。
愛は理解であり。赦しであり。共生であり。支えあいであり幸せを実感へと導くメッセージのエッセンスです。
これがないと、人はコミュニケーションをとらなくなり。懐疑心と恐れ欺きや攻撃型の人間を生み出し。 社会も国も破滅に至ることでしょう。
日本は、近代化が進む流れの中、コミュニケーションの本質をなくし。 情報の共有か提供のこともしくは、自分の都合とうっぷんをぶちまけることがコミュニケーションだとはき違えている人がほとんどです。
だから、義務教育にコミュニーケーション力を培うためディベート力を養うなどナンセンスな発想が国会ですら生まれ、実現化もしておりますが。
コミュニケーションの要は信頼関係の構築です。 議論に勝ったや負けたの観念はコミュニーケーションとは程遠い、異質のジャンク罵倒行事です。
信頼や理解を培うための相手へのご機嫌うかがいは、アメリカなど西洋文化が得意とする分野です。 常日頃から、How Are You?とコンディションを気遣う第一声を習慣的に発します。
1970年代から80年代の中ごろまでは、アメリカのカリフォルニアは愛と理解のモデル都市として、日本からは、実業家ビジネスの視察団、教職員の視察団、そして障害者バリアフリーのモデル都市として・・日本がこぞってコピーした町でもあります。
バリアフリーとは何でしょうか?日本の歩道にはそれまで車イス用のスロープが交差点付近には配備されておらず。 つんのめりそうに車いすで強引に歩道の段差をガタン!と落ち込むか。数10メートル手前の民家の駐車場のスロープをかりて降り。その後延々と車道の脇をとおり車のドライバーに煙たがられながらエッチラオッチラ十数メートルも横断歩道の交差点まで進むかしかできず。
交差点の歩道先端でつんのめって地面に放り出された車いすの方をしょっちゅう目撃したりもしていましたし。 道路の脇を延々と車いすで通ると危ないのでヤメテクレ!と注意する心ナイ警官まで居る始末で。 車いすを必要とする障害者は外に出るな!とでも言いたいような日本社会でした。 ましてや歩道や駅通路脇の点字ブロックなど・・70年代後半まで、日本人は誰一人存在すら知らない状況でした。 確か、つくば万博が始まるまでには東京だけでも海外から笑われないように街中整備を済ませようの合言葉で、これらの設置が急激に進められました。
話の要点は、大分それましたが。
それまでは、スーパーの店内通路も狭く車イスでは到底通れず。 書店の入り口では、私など車いすの方によく・・『この本が買いたいのだけど、どうか代わりに買ってきてもらえないか?』と、店先でよく頼まれたものです。
通勤やラッシュ時に、混んだ駅前通路や駅構内に車イスが通ろうものなら・・『こんな時に迷惑だ!』とその椅子をけ飛ばす輩も何度も見かけました。 なにやら罵倒してケリをいれながら(逆に)みなの代わりに迷惑発言してやったみたいな得意げな表情だったりもしていました。
そんな邪魔者扱いの車イスも今では、どこの鉄道会社も運行ダイヤを遅らせてでも二人係の駅員が車内への橋渡し案内をし、しかもその駅員たちの誇らしげな表情ときたら、いままで車イスの方を平気でケトバシテきてた同じ国民とは信じがたい光景です。 この変わりようは日本ならではでしょうか。(しかも障害者は半額で電車に乗車しております)
こうした徳高い面持ち変化をもたらせた模範都市、それがサンフランシスコだったのです。
なぜそこまで力説できるかといいますと。
私の4歳年上の姉が当時、現地サンフランシスコの近鉄関連旅行社に高校生の時分から勤務しており。視察団の手配役をしていたし。私の4番目の(私には姉が9人おります)姉夫婦がサンフランシスコの1等地ユニオンスクエア前のドレイクウィルシアというホテルのラウンジを経営しており、教職員視察団の貸し切りディナーの下ごしらえを当時小5だった私も手伝っておりました。
特に、その4つ上の姉はすべての日本映像メディアのアメリカロケ手配を受け持っていたり。
かの時の人(カップル)山口百恵と三浦友和がサンフランシスコロケの映画を撮影した際。
映画のロケハンもやっており、少しその映画にも登場しております。
ちなみにその映画のタイトルは『ふりむけば愛』でした。
話は、ポイントを突かずだらだらと進みましたが。
昨今の生理学的には、人の脳には言語野という部分があり言葉を巧みに操り、許容範囲にあまりある情報量を確保し迅速な情報を管理できる器官ですが。ところが言語という体系自体は第三者からの介入で、他者から刷り込みをうけないと、その器官自体は放置していても永遠に自発的には言語を生み(編み)出せない、いわばプログラムされていないPCのようなものです。 ノウハウやその体系部分をすでにもっている存在(他者)からインプットされ受け継ぐしか、人の脳は言語を抱え込むことができないことが立証されております。
実は、愛もそれと同じく。 愛をすでに取り込んで内在している存在からしか受けつぐことができません。
理論を活字で展開しても愛は生まれないのです。 他者からの実践により愛は受け継がれるのです。 愛について論じたからと言って愛があることにはならないのです。
聖書の有名な言葉に、慈善(偽善)を行い、そのために自らの命をなげうっても~そこに愛がなければただ虚しいだけ!というくだりがありますが。 愛は見よう見まねで生み出せるものではなく。 愛ある存在から受けとってから初めてその者の中で育つものです。
だから、家族や疑似家族の存在が人類には最重要でもあります。
私は、町の長老的立場をとり。 町中風景を愛にあふれ、希望と心のふれあい、内なる連携意識にあふれる空間へと変革させるイニシアチブをとり一人ひとりの市民にアプローチでき。
日本人らしさ。人間らしい生きがいを取り戻す手助けが必ずできると確信しています。
私がいままで受け持った日本の若者が確実にパワーUPしてきたように。
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