top of page
検索
執筆者の写真Seizou Harano (原野)聖三)

【私の簡単な活動経歴 紹介】をもう一度。

更新日:2020年3月11日


私は、セイムハートソサエティの原野聖三ハラノセイゾウ(56歳)といいます。(ちなみに2月23日の天皇誕生日生まれです)

出身は大阪のナニワ区で、10歳の時に教職員であった父の60歳の定年退職を機にアメリカへ移住しました。

なので、育ちはカリフォルニア州のサンフランシスコです。

私の父は、第二次世界大戦終結までの間、中国の湖南省に鉱山を所有し、鉱山業を営んでおりました。

当時、アメリカの高官がわざわざ買い付けに来るほどの貴重なレアメタルで一括提示、二億ドルの契約も成立させたほどです。70年前の二億ドルなので現在の日本の価値では10兆円ほどかと私は概算しておりますが。

その直後、中国では共産革命がおこりすべての財産と現地で営んでいた家庭などすべてを置き去りに中国を脱出する必要がありました。当時の共産党軍は資産家の主(男だけ)を無条件ですべて銃殺していたからです。

父は、私が生まれた折は大阪市内で教員をしておりましたが。そのような経歴上、私は幼少のころからそうした莫大なお金の話や。金銭(富)や学歴よりも大切な愛というものの話をよく聞かされました。 父はこの愛の助けにより命を長らえたからです。

わが家がアメリカに渡ったのが1973年であったので、そのころ日本は第一次オイルショックのさなかで、そこから徐々に、アメリカでは全く不人気だった日本車が(燃費がいいと)流行りだし。それに便乗する形で壊れにくさと格安な値段を売りに、様々なテレビなどの家電、時計、カメラなども大人気となり日本のフトコロが豊かになって行くわけですが。

この時期は、同時にカリフォルニア、特にLAとサンフランシスコが世界的にも理想の町であると多くの人々から信望を得。特に日本からは聖地扱いを受け。おびただしい観光客が年齢を問わず(下は一歳未満から90近いお年寄りまで)押し寄せました。

更に日本のビジネス視察団をはじめ、障害者バリアフリーの現地オブザーバーや、教職員、国会議員なども国の予算などで次々にこの町に押し寄せてきました。

私のすぐ上の姉が現地の近鉄系列の旅行社に高校生の時分から勤めており。そこは、日本のすべての映像メディアのロケ手配も担当していたので、かの山口百恵と三浦友和のアメリカでのロケ映画『ふり向けば愛』では、姉はロケハンを担当したうえ、映画内にも少し登場させてもらいましたし。

私の四番目の姉夫婦は、当時サンフランシスコの一等地ユニオンスクウェア前のホテルのラウンジを経営しておりましたので。日本の教職員の貸し切りディナーの下ごしらえを私自身手伝いながら、日本の教員の海外での羽目を外したどんちゃん騒ぎも直に目撃したり。

バリアフリーの視察の方を私自身案内したり。現地アメリカの日系人社会は、日本社会の縮図なので、私が当時14歳のころ大好きだった歌手の岩崎宏美さん(並びにスタッフ3名)と私は朝食を(セントフランシスホテルで)共にするチャンスもあったりして。多くのレアな体験を十代の前半から数多くすることができました。

そうした中、

当時は、夢のカリフォルニアとうたわれたもっともいい時代に、義務教育の根底ベースからを現地の学校現場で存分に授かり。愛と理解、そして誇りと勇気の教え。アメリカ特有の個性の尊重やユーモアの在り方なども。 (ちなみに、日本人としての誇りをどう持つべきかの指針も実技的な形で、核心に満ちた形で自然にカリフォルニアの学校で学ばせていただき)

多民族がそれぞれ独自の文化を主張し誇りながらも融合しあう。理想的コミュニティーの完成図を肌で吸収しながら。人生の本当の価値。コミュニケーションの真の意味。真実の相互理解のあり方など。

言葉で言い尽くせない恩恵の数々をたまわり。身に余る多幸感のなか、片や、日本からの現地ニュースなどから目にする若者。特に、中学校からの女子学生の無気力な姿。夢も希望も社会から踏みにじられたかのような落胆した後姿を何度も目撃し。

こうした犠牲者を作り出す現代日本の社会構造の問題点を探りながら改善し。愛されるべき日本の若者に勇気と希望、内なる繋がりの確かさ。愛のまなざしを向けられている実感を持たせるべく。

私は22歳の折から、日本に住み続け。若者の精神衛生上での環境改善、問題解決に尽力尽くしてまいりました。 私の人生アドバイスの成果により、その行程での勇気を再び奮わせてくれた若者の中に。当時17歳だった角川三人娘のひとり原田知世ちゃんもおります。

とくに、彼女は20歳の時に出版されたエッセー集の開口一番1ページ目書き出しに、私のアドバイスにより人生観も変わったと告白文を書いてくれております。

そのほか、著名人の代表で言いますと。

2018年の冬季オリンピックで史上三人目の女子としてトリプルアクセルを成功させた長洲未来ちゃんも、彼女が14歳の頃から技と認識への指針、人生上の考え方などをアドバイスさせてもらい。 特にこの24歳で初めて成功させたトリプルアクセルの空中での加速の裏技は私が伝授させてもらいました。

こうした成果を得られた様々なアドバイスのインスピレーションは、そのつどピュアに対象を見据えることとその方の立場に立つ上での観察眼は、この私が幼少期の時分からずっと私を育んでくれた愛の本質から生まれる平安の感覚と洞察着眼の視野の覚醒によるものだと私はとらえております。

その功績結果の集大成の一つに、日本で大ヒットしたAKB48の楽曲『恋するフォーチュンクッキー』があり。原案に加え、多くのコンテンツは私の持ち込み企画として依頼し誕生した作品です。(制作当事者はもちろんAKS陣営のプロデュースという形になりますが)

ハンドクラップや共に歌って踊れるというコンセプト。音源の様々な発想部分の提供。 パレードの先頭隊のような形でのビデオ撮影での表現と町中が踊りだす発想など。数十に及ぶアイデアを携えての持ち込み企画としてAKSへ提供しましたことにより。若者を励ます一大ヒット曲の完成!に貢献したことも挙げられます。

『世の中まだまだ愛であふれているよ!』『素晴らしい人生をあきらめないで』というキーメッセージを掲げ。わたしがこのような歌をどうか歌ってくださいと2013年の四月の終わりころからAKB運営のAKSにリクエスト依頼しておりました。

これらのことのすべては、人類の未来とその文化や、これからの多文化の共存社会を担う若者に・・より笑顔と勇気。愛情と理解。そして幸せの実感を確立してもらうことを真髄に35年間、生活費のほとんどをつぎ込んで、自身の一つの使命として働きを続けてまいりました。

              原野 聖三


閲覧数:747回0件のコメント

Comments


bottom of page